先日神保町の古書街を歩いていたら『丸山眞男集』が安値で売っていたので、第三巻を買ってきた。「超国家主義の論理と心理」とか「日本ファシズムの思想と行動」なんかの超有名論文が入っている巻である。
丸山が好きだ。思想的に見れば、それは文句が無いことはないが、というか大有りだが、それでも好きだ。丸山は、エピソードがいい。
丸山の最後。癌になってから亡くなるまでの病室の日々のエピソードは特に胸を打つ。少し長くなるが引用したい。
(前略)中野雄氏によると、見舞いに行くと、丸山氏は紙とペンを用意して、すらすらと肝臓の図を描き、ペン先で図の該当部分を指しながら、「つまりだ、ここを切れば問題は解決する。しかし、そうは簡単にいかないところががんというものでして…」と、『講義』をはじめる。経過レポートにしても病室での説明にしても、まるでがん研究者が患者のがんのことを説明するかのように、冷静で客観的な態度だった。
そして、最初に肝がんの告知を受けた時には、「絶望よりも興味が生まれた」といって、肝がんに関する内外の専門的な文献を集めて、ベッドの上で次々に読破していった。医師が顔を見せると、高度な医学的な質問をするので、若い医師は答えられないで困ったほどだった。
(柳田邦男「新・がん50人の勇気―森瑤子から丸山眞男まで」『文藝春秋』第85巻、第3号(2007年)、371頁。)
もちろん、がんを学問の対象として客観化することによって、死の恐怖から逃れようという無意識も働いていただろう。それでも、「絶望よりも興味が生まれた」という言葉に嘘は無いと思う。
丸山という人は徹頭徹尾学者だったのだ。
あるいは、埴谷雄高の回想。これは間違いなくエッセイとして珠玉の出来である。丸山、埴谷、そして中国研究者の竹内好は当時三人とも吉祥寺に住んでいた。丸山は何か考えごとをして、それがまとまると竹内の家に出向いてその想念を披露するのであった。埴谷が見た、その様子。
丸山眞男の携えきたった思想内容は、さながら数マイルに及ぶ弾帯を備えた機関銃の無限発射のごとく切れ目もなくつづきにつづいて、横にいる私が、いまとまるか、とまるか、と時折息を切る相の手をいれてみるけれども、停まらないのである。自宅を出たとき、また、短い距離を歩いてきたとき、何かの核心と核心がつながっているかのごとき内面を携えていたに違いないけれども、竹内家に到って数語を発した途端に、この世界の地水火風も、生の人情の機微も、階級社会の構造も、つながりにつながって、丸山眞男は喋り停まらないのである。これはもはや内面のトランス状態であるのであって、たとい丸山眞男自身がとめようとしても、精神の自動機械と化した原言語発動は、宗教のなかに時たまある、お筆先、以上にとまらないのである。
(埴谷雄高「時は武蔵野の上をも」『現代思想』第22巻、第1号(1994年)、77-78頁。)
丸山はきっと天才ではない。
ただ、好きで好きで堪らなかったのだ。考えることが、学問をすることが。
だから、戦後民主主義のイコンとして窮屈な状況に追い込まれてしまったことを、ひどく後悔したに違いない。
最後に、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』から。
明らかに丸山をモデルとした「思想史の講義をしている教授」について、主人公が語るシーン。ちなみに庄司薫(本名:福田章二)は丸山のゼミ生だった。
(前略)たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだが、)ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだった。
(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて[改版3刷]』(中央公論社、2002年[初版1973年])、37-38頁。)
こういうふうに「知性」を捉えることが許されていた時代があったのだ。
今はきっと違う。「知性」は「役に立つ」と同義になってしまった。
だから、現代に「第二の丸山眞男」は必要ないのだろう。
それがいいことなのかどうかはわからないけど、どことなく寂しい。
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