村上春樹最新作『1Q84』、読みました。本エントリ内、ネタバレはかなり注意深く避け、ほとんど皆無だと思いますがが、先入観を持たずに読みたい方はご注意ください。
27日(水)から並んでいた書店もあるようですが、正式な発売日である29日(金)の朝に購入しました。今回は見送るつもりだったのですが、書店で山積みになっているのを見てやはり我慢できませんでしたね。30日(土)の少しと、31日(日)の丸1日をかけて約1050頁読了しました。
忘れないうちに感想を記しておきたいと思います。たぶんネット上ではすでに数多くの書評が出ていると思いますが、まだ眼を通していません。ネットのみならず、TV・ラジオ・新聞等々の情報には一切触れていないので、この小説が世間でどのように評価されているのか、全くわかりません。従ってここに記すのは、全く混じり気のない、俺自身の生の感想です。それが世間の評価と全く同じなのか、あるいは180度違うのかわかりませんが、とにかく書いてみたいと思います。
まだ考えがまとまっていないので箇条書きに近いものですし、ネタバレを避けるためにまわりくどい記述になっています。わかりにくい文章ですが、ご容赦ください。あと、文体が若干「村上春樹的」になっているかもしれませんが、気にしないでください。これは一種の病気みたいなもので(笑)、村上春樹に限らず、長編小説を読んだ後、俺はしばらくその文体から「抜け出せなく」なってしまうのです。
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もしも小説を読むことに「予習」が必要ならば、この小説の「予習」として読むべき本は2つ。『アンダーグラウンド』と『走ることについて語るときに僕の語ること』だ。この小説は明らかにその2冊の延長線上にある。
文体は極めてシャープ。余分なものはほとんどない。純文学ではなく、大衆小説のようだ。言葉はかなり慎重に選び抜かれており、1つ1つの単語がまるで完成したパズルのピースのように、全体の中で自らのあるべき位置に収まっている。文体だけとってみれば、「日本文学の1つの到達点」と言って過言ではないほどの水準に達していると言えるだろう。
内容について。Book1の半分くらいまで、「これはまずい」と思いながら読んでいた。失敗作の匂いが漂っていたからだ。物語はこれまでの作品に比べて遥かに軽やかに進むが、その分「ひっかかり」が無く、全てが上滑って行く。物語の世界に入り込むことが出来ない。
Book1の後半になると、徐々に物語がこちらに訴えかけてくるようになる。後はいつもの村上春樹。一気に読ませる。しかし、この小説は「いい小説」なのか、判断がつかない。その判断は結局、最後から4頁目まで持ち越された。本当にそこまで、この物語が「どっちに転ぶか」わからなかったのだ。
最後から4頁目(Book2、498頁)で、主人公はあるものを開き、その「中身」を確認する。「中身」として読者が想定できるのは、2パターン。仮に「A」と「B」としておこう。
「A」は、1人称的世界観(「この世界は僕次第だ」)の象徴だ。
「B」は、この世界が「繋がり」によって出来ていることのの象徴だ。
もし「中身」が「A」だった場合、俺はこの小説を「駄作」、あるいは「マンネリ」として切り捨てなければならない。「中身」が「B」だった場合、『1Q84』は、「傑作」とまでは行かなくても、「いい小説」として俺の記憶に残ることになるだろう。本当に際どい勝負なのだ。
そして、「中身」は、「B」だった。
『1Q84』は「いい小説」になった。
村上春樹のこれまでの長編は全て、「<1人>の物語」だった。例外なく。全て。もし「中身」が「A」だったら、『1Q84』もまたそうなっていただろう。しかし「中身」が「B」だったことによって、『1Q84』は「<2人>の物語」になった。多くの読者は気付かないだろうが、これは極めて大きな変化だ。
この小説は間違っても「傑作」ではないし、世間の評価はかなり厳しいものになるだろう。しかしそれでも、村上春樹が「<2人>の物語」を書いたことを歓迎し、祝福したいと思う。「国民的作家」は、新たなフェーズに入ったのだ。