2010年6月20日日曜日

■ジジェク名文集

以前ちょっと触れたジジェクの本。やはり買わずに図書館で借りて読んでいます。

スラヴォイ・ジジェク/中山徹、鈴木英明訳
『大義を忘れるな―革命・テロ・反資本主義』
(青土社、2010年)















まだ読み始めたばかりですが、やはりジジェクは「色々な意味で」面白い。特に例示。ここまで読んだ部分での名文を紹介いたします。

まずは冒頭に掲げられた献辞。ジジェクが献辞を書くのは珍しいことです。

アラン・バディウが、私が講演をしていた部屋で聴衆にまざって座っていたときのこと、彼の携帯電話が突然鳴り出した(とはいえ、彼にとっては迷惑千万、それは私が彼に貸してあった私の携帯電話であった)。が、彼はスイッチを切るどころか、私の講演をおだやかにさえぎり、電話の相手の声が聞き取りやすくなるようにもう少し静かに話せないかと私に尋ねた。これが真の友情の行為でないとしたら、なにを友情というのか。というわけで、本書はアラン・バディウに捧げられる。

この献辞は非常に興味深く、精神分析的に考えて奥深いものです。ポイントは、バディウが持っていた携帯がジジェクのものである、ということです。おそらくかかってきた電話は、ジジェク宛のものでしょう。バディウは、「ジジェクを救うためにジジェクを遮った」のです。ジジェクへの呼びかけにジジェク本人に代わって応答するために、つまり「応答するジジェク」を救うために、「講演するジジェク」を抑圧したのです。

日本では、『風と共に去りぬ』でクラーク・ゲーブルがヴィヴィアン・リーにいう「正直おれの知ったこっちゃない」という台詞が、「ぼくたちのあいだにはすこし誤解があるようだ」という風に翻訳されている。つまり、日本的な上品さとエチケットが守られているわけだ。対照的に、(中華人民共和国にいる)中国人は、『カサブランカ』の台詞「美しい友情のはじまりだ!」を「われわれ二人はこれから反ファシズム闘争の新しい支部をつくるんだ!」と訳した。
(19-20頁)

本当でしょうか。

私は自著のカバーにこう記したい誘惑に駆られたことがある。「ジジェクは、ひまさえあればネットサーフィンをして児童ポルノをあさり、幼い息子に蜘蛛の足のむしり方を教えている…」。
(26頁)

これは、本の背表紙に書かれる著者紹介文の結びにしばしば「私的な」文(ex.「○○はひまさえあれば猫と遊び、チューリップの世話をしている」)が書かれることを揶揄し、こうした「彼もまた人間なのである」的な言説の問題点を論じる流れでの一文なのですが、ジジェクだけにどこまで冗談なのか図りかねるところがあります。

男の子と女の子が夜遅く彼女の家の前で、さよならをいって家路につこうとしている。男の子がためらいがちにいう。「コーヒーをごちそうになりたいんだけど、寄ってもいいかな」。女の子がこたえる。「ごめん、今夜はだめ、生理だから…」。この話を、慇懃さを意識して作りかえるとこうなるだろう。女の子がいう。「ねえ聞いて、生理が終わったの、家にいらっしゃいよ」。男の子がこたえる。「ごめん、今はコーヒーが飲みたい気分じゃないんだ…」。
(33頁)

「慇懃さ」が時に「残酷さ」を孕んでいることを指摘する文章です。「慇懃な態度」が人を傷つけるというようなことです。男の子はオブラートに包んで断ったつもりなのに、そうなっていないということでしょうか。日本には「慇懃無礼」という言葉がありますが、そういったものを指しているのでしょう。しかし例として本当に適切なのか、よくわかりません。

よく次から次へとこういう文章が思いつくものです。

2010年1月25日月曜日

■イデアは離散的なのか?―数・時空・意識

気がつけば前の書き込みから10日も経ってしまいました。この間何をしていたかと言うと、家にこもってひたすら本を読んでいました。食料と本を買いに出る以外は、本当に外に出ていません。修論執筆中に我慢していた分、読書欲が暴走しています(笑)

自分でも何を読んだのか忘れてしまいそうなので、以下に備忘録としてこの10日間に読んだ本を羅列してみます。最初から最後まで新たに全部読んだ本だけではなく、ちょこちょこ参照した本や、前に1度読んで読み返した本も含まれています。この10日間で最初から最後まで通読した本は、この内の8割くらいでしょうか。

テーマは大きく、「『リーマン予想』関連」、「『意識のハードプロブレム』関連」、「『時空の量子化』関連」、「『ペンローズ』関連」、「その他」の5つに分かれますね。

<リーマン予想>

リーマン予想-Wikipedia

・梅田亨、黒川信重、若山正人、中山さち子『ゼータの世界』(日本評論社、1999年)
・黒川信重、小川信也『リーマン予想のこれまでとこれから』(日本評論社、2009年)
・黒川信重『数学セミナー増刊 リーマン予想がわかる』(日本評論社、2009年)
・藤崎源二郎、森田康夫、山本芳彦『数論への出発[増補版]』(日本評論社、2004年)
・ジョン・ダービーシャー/松浦俊輔訳『素数に憑かれた人たち―リーマン予想への挑戦』(日経BP社、2004年)


<時空の量子化>

量子重力理論-Wikipedia
万物の理論-Wikipedia
ループ量子重力理論-Wikipedia

・ジョン・W・モファット/水谷淳訳『重力の再発見―アインシュタインの相対論を超えて』(早川書房、2009年)
・ピーター・ウォイト/松浦俊輔訳『ストリング理論は科学か―現代物理学と数学』(青土社、2007年)
・竹内薫『ループ量子重力入門』(工学社、2005年)
・郡司ペギオ-幸夫『時間の正体―デジャブ・因果論・量子論』(講談社選書メチエ、2008年)
・ブルース・シューム/森弘之『「標準模型」の宇宙-現代物理学の金字塔』(日経BP社、2009年)
・R.P.ファインマン/釜江常好、大貫昌子訳『光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学』(岩波現代文庫、2007年)
・『別冊数理科学 量子重力理論―広がる多彩な最前線』(サイエンス社、2009年)


<意識のハードプロブレム>

意識のハードプロブレム-Wikipedia

・山口裕之『認知哲学―心と脳のエピステモロジー』(新曜社、2009年)
・濱田穣『なぜヒトの脳だけが大きくなったか』(講談社ブルーバックス、2007年)
・マルコ・イアコボーニ/塩原通緒訳『ミラーニューロンの発見』(ハヤカワ新書juice、2009年)
・橋元淳一郎『0と1から意識は生まれるか―意識・時間・実在をめぐるハッシー式思考実験』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2009年)


<ペンローズ>

・ロジャー・ペンローズ/林一訳『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房、1994年)
・ロジャー・ペンローズ他/中村和幸訳『心は量子で語れるか―21世紀物理の進むべき道をさぐる』(講談社ブルーバックス、1999年)
・ロジャー・ペンローズ/竹内薫、茂木健一郎訳・解説『ペンローズの<量子脳>理論―心と科学的基礎をもとめて』(ちくま学芸文庫、2006年)


<その他>

・ゲーデル/林晋、八杉満利子訳・解説『不完全性定理』(岩波文庫、2006年)
・川上紳一、東條文治『最新 地球史がよくわかる本[第2版]』(秀和システム、2009年)
・砂田利一『現代数学への入門 行列と行列式』(岩波書店、2003年)
・竹内外史『新装版 集合とはなにか』(講談社ブルーバックス、2001年)
・メンデル・サックス/原田稔訳『相対論対量子論』(講談社ブルーバックス、1999年)
・『数理科学2010年1月号 特集:無限次元の魅力』(サイエンス社、2010年)
・高林武彦/吉田武監修『量子論の発展史』(ちくま学芸文庫、2002年)


「その他」の本はいずれも、他の4つのテーマのいずれかの周辺分野に関するものになっています。したがって基本的に、この10日間の読書は4つのテーマについて行われたのです。そしてこれら4つのテーマ、一見全く関連は無さそうですが、実は1つの統一的な問題意識の下で選ばれているのです。それは、「『ペンローズの3つの世界(プラトン的世界、物質的世界、精神的世界)』のいずれも、『離散性』をその本質として抱えているのではないか?」ということです。

わけわからんですね(笑)今はまだまとまってないので上手く説明できませんがとりあえず当面、この線で考えたり読んだりしていきたいと思います。いよいよ近日中にネットを修復しようかと考えていますし(まだしてなかった)、まとまったら何かここに書きますね。

2009年6月1日月曜日

■1Q84

村上春樹最新作『1Q84』、読みました。本エントリ内、ネタバレはかなり注意深く避け、ほとんど皆無だと思いますがが、先入観を持たずに読みたい方はご注意ください。
















27日(水)から並んでいた書店もあるようですが、正式な発売日である29日(金)の朝に購入しました。今回は見送るつもりだったのですが、書店で山積みになっているのを見てやはり我慢できませんでしたね。30日(土)の少しと、31日(日)の丸1日をかけて約1050頁読了しました。

忘れないうちに感想を記しておきたいと思います。たぶんネット上ではすでに数多くの書評が出ていると思いますが、まだ眼を通していません。ネットのみならず、TV・ラジオ・新聞等々の情報には一切触れていないので、この小説が世間でどのように評価されているのか、全くわかりません。従ってここに記すのは、全く混じり気のない、俺自身の生の感想です。それが世間の評価と全く同じなのか、あるいは180度違うのかわかりませんが、とにかく書いてみたいと思います。

まだ考えがまとまっていないので箇条書きに近いものですし、ネタバレを避けるためにまわりくどい記述になっています。わかりにくい文章ですが、ご容赦ください。あと、文体が若干「村上春樹的」になっているかもしれませんが、気にしないでください。これは一種の病気みたいなもので(笑)、村上春樹に限らず、長編小説を読んだ後、俺はしばらくその文体から「抜け出せなく」なってしまうのです。


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もしも小説を読むことに「予習」が必要ならば、この小説の「予習」として読むべき本は2つ。『アンダーグラウンド』と『走ることについて語るときに僕の語ること』だ。この小説は明らかにその2冊の延長線上にある。

文体は極めてシャープ。余分なものはほとんどない。純文学ではなく、大衆小説のようだ。言葉はかなり慎重に選び抜かれており、1つ1つの単語がまるで完成したパズルのピースのように、全体の中で自らのあるべき位置に収まっている。文体だけとってみれば、「日本文学の1つの到達点」と言って過言ではないほどの水準に達していると言えるだろう。

内容について。Book1の半分くらいまで、「これはまずい」と思いながら読んでいた。失敗作の匂いが漂っていたからだ。物語はこれまでの作品に比べて遥かに軽やかに進むが、その分「ひっかかり」が無く、全てが上滑って行く。物語の世界に入り込むことが出来ない。

Book1の後半になると、徐々に物語がこちらに訴えかけてくるようになる。後はいつもの村上春樹。一気に読ませる。しかし、この小説は「いい小説」なのか、判断がつかない。その判断は結局、最後から4頁目まで持ち越された。本当にそこまで、この物語が「どっちに転ぶか」わからなかったのだ。

最後から4頁目(Book2、498頁)で、主人公はあるものを開き、その「中身」を確認する。「中身」として読者が想定できるのは、2パターン。仮に「A」と「B」としておこう。

「A」は、1人称的世界観(「この世界は僕次第だ」)の象徴だ。
「B」は、この世界が「繋がり」によって出来ていることのの象徴だ。

もし「中身」が「A」だった場合、俺はこの小説を「駄作」、あるいは「マンネリ」として切り捨てなければならない。「中身」が「B」だった場合、『1Q84』は、「傑作」とまでは行かなくても、「いい小説」として俺の記憶に残ることになるだろう。本当に際どい勝負なのだ。

そして、「中身」は、「B」だった。
『1Q84』は「いい小説」になった。

村上春樹のこれまでの長編は全て、「<1人>の物語」だった。例外なく。全て。もし「中身」が「A」だったら、『1Q84』もまたそうなっていただろう。しかし「中身」が「B」だったことによって、『1Q84』は「<2人>の物語」になった。多くの読者は気付かないだろうが、これは極めて大きな変化だ。

この小説は間違っても「傑作」ではないし、世間の評価はかなり厳しいものになるだろう。しかしそれでも、村上春樹が「<2人>の物語」を書いたことを歓迎し、祝福したいと思う。「国民的作家」は、新たなフェーズに入ったのだ。

2008年10月22日水曜日

■丸山眞男のこと



先日神保町の古書街を歩いていたら『丸山眞男集』が安値で売っていたので、第三巻を買ってきた。「超国家主義の論理と心理」とか「日本ファシズムの思想と行動」なんかの超有名論文が入っている巻である。

丸山が好きだ。思想的に見れば、それは文句が無いことはないが、というか大有りだが、それでも好きだ。丸山は、エピソードがいい。

丸山の最後。癌になってから亡くなるまでの病室の日々のエピソードは特に胸を打つ。少し長くなるが引用したい。


(前略)中野雄氏によると、見舞いに行くと、丸山氏は紙とペンを用意して、すらすらと肝臓の図を描き、ペン先で図の該当部分を指しながら、「つまりだ、ここを切れば問題は解決する。しかし、そうは簡単にいかないところががんというものでして…」と、『講義』をはじめる。経過レポートにしても病室での説明にしても、まるでがん研究者が患者のがんのことを説明するかのように、冷静で客観的な態度だった。

そして、最初に肝がんの告知を受けた時には、「絶望よりも興味が生まれた」といって、肝がんに関する内外の専門的な文献を集めて、ベッドの上で次々に読破していった。医師が顔を見せると、高度な医学的な質問をするので、若い医師は答えられないで困ったほどだった。

(柳田邦男「新・がん50人の勇気―森瑤子から丸山眞男まで」『文藝春秋』第85巻、第3号(2007年)、371頁。)


もちろん、がんを学問の対象として客観化することによって、死の恐怖から逃れようという無意識も働いていただろう。それでも、「絶望よりも興味が生まれた」という言葉に嘘は無いと思う。

丸山という人は徹頭徹尾学者だったのだ。


あるいは、埴谷雄高の回想。これは間違いなくエッセイとして珠玉の出来である。丸山、埴谷、そして中国研究者の竹内好は当時三人とも吉祥寺に住んでいた。丸山は何か考えごとをして、それがまとまると竹内の家に出向いてその想念を披露するのであった。埴谷が見た、その様子。


丸山眞男の携えきたった思想内容は、さながら数マイルに及ぶ弾帯を備えた機関銃の無限発射のごとく切れ目もなくつづきにつづいて、横にいる私が、いまとまるか、とまるか、と時折息を切る相の手をいれてみるけれども、停まらないのである。自宅を出たとき、また、短い距離を歩いてきたとき、何かの核心と核心がつながっているかのごとき内面を携えていたに違いないけれども、竹内家に到って数語を発した途端に、この世界の地水火風も、生の人情の機微も、階級社会の構造も、つながりにつながって、丸山眞男は喋り停まらないのである。これはもはや内面のトランス状態であるのであって、たとい丸山眞男自身がとめようとしても、精神の自動機械と化した原言語発動は、宗教のなかに時たまある、お筆先、以上にとまらないのである。

(埴谷雄高「時は武蔵野の上をも」『現代思想』第22巻、第1号(1994年)、77-78頁。)



丸山はきっと天才ではない。

ただ、好きで好きで堪らなかったのだ。考えることが、学問をすることが。

だから、戦後民主主義のイコンとして窮屈な状況に追い込まれてしまったことを、ひどく後悔したに違いない。


最後に、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』から。

明らかに丸山をモデルとした「思想史の講義をしている教授」について、主人公が語るシーン。ちなみに庄司薫(本名:福田章二)は丸山のゼミ生だった。


(前略)たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだが、)ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだった。

(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて[改版3刷]』(中央公論社、2002年[初版1973年])、37-38頁。)



こういうふうに「知性」を捉えることが許されていた時代があったのだ。
今はきっと違う。「知性」は「役に立つ」と同義になってしまった。
だから、現代に「第二の丸山眞男」は必要ないのだろう。


それがいいことなのかどうかはわからないけど、どことなく寂しい。



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