以前ちょっと触れたジジェクの本。やはり買わずに図書館で借りて読んでいます。
スラヴォイ・ジジェク/中山徹、鈴木英明訳
『大義を忘れるな―革命・テロ・反資本主義』
(青土社、2010年)
まだ読み始めたばかりですが、やはりジジェクは「色々な意味で」面白い。特に例示。ここまで読んだ部分での名文を紹介いたします。
まずは冒頭に掲げられた献辞。ジジェクが献辞を書くのは珍しいことです。
アラン・バディウが、私が講演をしていた部屋で聴衆にまざって座っていたときのこと、彼の携帯電話が突然鳴り出した(とはいえ、彼にとっては迷惑千万、それは私が彼に貸してあった私の携帯電話であった)。が、彼はスイッチを切るどころか、私の講演をおだやかにさえぎり、電話の相手の声が聞き取りやすくなるようにもう少し静かに話せないかと私に尋ねた。これが真の友情の行為でないとしたら、なにを友情というのか。というわけで、本書はアラン・バディウに捧げられる。
この献辞は非常に興味深く、精神分析的に考えて奥深いものです。ポイントは、バディウが持っていた携帯がジジェクのものである、ということです。おそらくかかってきた電話は、ジジェク宛のものでしょう。バディウは、「ジジェクを救うためにジジェクを遮った」のです。ジジェクへの呼びかけにジジェク本人に代わって応答するために、つまり「応答するジジェク」を救うために、「講演するジジェク」を抑圧したのです。
日本では、『風と共に去りぬ』でクラーク・ゲーブルがヴィヴィアン・リーにいう「正直おれの知ったこっちゃない」という台詞が、「ぼくたちのあいだにはすこし誤解があるようだ」という風に翻訳されている。つまり、日本的な上品さとエチケットが守られているわけだ。対照的に、(中華人民共和国にいる)中国人は、『カサブランカ』の台詞「美しい友情のはじまりだ!」を「われわれ二人はこれから反ファシズム闘争の新しい支部をつくるんだ!」と訳した。
(19-20頁)
本当でしょうか。
私は自著のカバーにこう記したい誘惑に駆られたことがある。「ジジェクは、ひまさえあればネットサーフィンをして児童ポルノをあさり、幼い息子に蜘蛛の足のむしり方を教えている…」。
(26頁)
これは、本の背表紙に書かれる著者紹介文の結びにしばしば「私的な」文(ex.「○○はひまさえあれば猫と遊び、チューリップの世話をしている」)が書かれることを揶揄し、こうした「彼もまた人間なのである」的な言説の問題点を論じる流れでの一文なのですが、ジジェクだけにどこまで冗談なのか図りかねるところがあります。
男の子と女の子が夜遅く彼女の家の前で、さよならをいって家路につこうとしている。男の子がためらいがちにいう。「コーヒーをごちそうになりたいんだけど、寄ってもいいかな」。女の子がこたえる。「ごめん、今夜はだめ、生理だから…」。この話を、慇懃さを意識して作りかえるとこうなるだろう。女の子がいう。「ねえ聞いて、生理が終わったの、家にいらっしゃいよ」。男の子がこたえる。「ごめん、今はコーヒーが飲みたい気分じゃないんだ…」。
(33頁)
「慇懃さ」が時に「残酷さ」を孕んでいることを指摘する文章です。「慇懃な態度」が人を傷つけるというようなことです。男の子はオブラートに包んで断ったつもりなのに、そうなっていないということでしょうか。日本には「慇懃無礼」という言葉がありますが、そういったものを指しているのでしょう。しかし例として本当に適切なのか、よくわかりません。
よく次から次へとこういう文章が思いつくものです。
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